高校時代、僕は電車で約1時間かけて、通学していた。
その高校1年の夏に、僕は精神的にドロップアウトした。
この学校にはついていけないと。
(でも、親友はできたけどね。)
毎日、僕は電車に乗られ、終点の駅で降りて、高校に行っていたのだが、その終点の駅(新潟県柏崎市)からは信越線が発着していて、そこからなら富山や金沢、さらに京都まで行けた。
終点の駅に近づくたびに、「このままで電車を乗り継いで、僕のことを知らない、どこか遠くの町へ行ってみようか」といつも思っていた。
だけど、結局、3年間、ただ無為に過ごし、どこへも行かなかった。
誰でもあるよね(無い?)。
自分のことを知らない町に行き、そこで1から出直してみたいと思うこと。
特に若い頃は。
今は、もう思わない。
それは惰性に流されることに慣れたからだろうか?
それとも、知らない町に行っても、変わることなんかできない、ということが分かったからだろうか?
それに、どこにも行かなくても、本当に変わりたいと思うならば、ここにいても変わることができると思えるようになったからかもしれない。
たとえば、ネットの中は僕のことを知らない所だらけだ。
だから、別の自分の人格を作り、その人物に成りきることだってできるはずだが、結局、そんな無理は続かず、「自」が出る。
結局、そういうことだ。
人は成りたいと思うようにしか成れず、もし、そのように成れないのなら、本当は、そんな願望なんて無かったことに等しいのだ。
僕は今さら、何になりたいのだろう?
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